「骨の肉」河野多恵子

河野多恵子さん作品紹介

男と女は、骨つき殻つきの料理を好んだ。女は牡蛎の殻を巧みに開け、氷を並べた大皿にレモンを添え、食卓に出す。男は果物ナイフで貝柱を切り、礒の水々しさと香を一気に啜り込む。男が殻に取り残した貝柱を、女はフォークで剥がし、 脣に擦りつける。次いで、弧を描いて張りついている薄肉も剥いで口にいれる。その水々しい感触に、女は口中の幾十もの部分が満たされた歓びに、一斉にどよめいているように感じさえする。

骨付き料理でも同じであった。女が作ったとろ煮のテール。男はついている限りの肉を味わい尽くす。女が骨(こつ)テールと呼ぶ、その空 の洞に求め得た味わいは、女にとって恍惚たるものであり、全身のあらゆる感覚が味覚に集中して、女を身動きしかねる気持ちにさせたのであった。ローストチ キンにしても同様、女が与かるのは骨ばかりであった。男は肉を貪り、女は一途に骨を味わう、それは女にこの世にこれ程の味覚があったのかという気にさせ た。その素晴らしい味覚に、双方溜息を洩らすことも度々であった。

風変わりなタイトル、「骨の肉」は、こういう味覚に因んだ二人の趣向によるものである。男の素振りが何となく変わり始め、何度も叫びたい気持ちを押さえて、言わずにおいた「もうあなたなどに居てもらわなくてもいい」という女の言葉に乗じて、男は去ってしまう。男の爽やかさに比して、女の 許には男のがらくたから下着、荷物が残され、どうすることも出来ない。女にとって何より厄介なのが、置き去りにされた味覚である。

特別なものでなく、ごく卑近な日常的なものを素材として、男に逃げられた女の苦しみやあがきを、いろんな角度からリアルに描写し、女の深奥の心理を暴き出していく。河野多恵子の特色溢れる作品である。

発表「群像」昭和四十四年三月一日発行。
初版『骨の肉』昭和四十六年十一月二十八日発行、講談社。
『河野多恵子全集第三巻』平成七年二月十日発行、新潮社。

河野多恵子(こうの・たえこ)・作家

1926(大正15)年、大阪市西区に生まれる。「蟹」で第四十九回芥川賞を受賞。「最後の時」で女流文学賞、「不意の声」で読売文学賞、「一年の牧歌」 で谷崎潤一郎賞、「みいら採り猟奇譚」で野間文芸賞、「後日の話」で伊藤整文学賞を受賞。最新作は「秘事」。

主な作品

幼児狩り
遠い夏
回転扉
谷崎文学と肯定の欲望