10月「重陽の節句(旧暦9月9日)と
豆名月(旧暦9月13日)」
重陽の節句(旧暦9月9日)
旧暦9月9日の節句を重陽の節句といいます。9は陽数(奇数)の極で、それが重なるところから、重陽といい、吉日とされました。1月7日(人日)・3月3日(上巳)・5月5日(端午)・7月7日(七夕)・9月9日(重陽)の節句が五節句(節供)です。江戸時代、幕府は五節供を式日と定めました。五節供の制は、明治6年1月に廃止されましたが、民間行事としてしっかり定着しました。重陽の節句はまた、菊の節句とよばれ、親しまれました。古くは、この日に邪気を祓い長寿を願って、菊花を杯に浮かべて飲むしきたりがありました。
さて、船場安土町の水落家の「行事帳」(文政6年:1823年)から、9月節句の料理献立を見てみましょう。
節句 朝 本膳
汁 見はからい
飯
平 松たけ、いも
昼 汁
猪口鱠
焼物 」
この献立をもとに、藤井由美子さんに江戸時代の重陽の節句のお料理を再現していただこうと思いましたが、この献立内容では少しむつかしいようでした。しかし、水落家にはもう一冊、さらに古い「文化二年(1805)十二月」と記載のある「行事帳」が残されていることは、「7月 夏祭りのご馳走」の記事で紹介 しています(7月の項、注3参照)。その「行事帳」の記載を見てみると、
汁 菜
平 いも、松竹、油上ケ
鱠 大こん
昼 汁 見合
焼物
栗三升、柿 」
とあり、文政6年の「行事帳」よりは詳しく書かれていますので、藤井さんにこの献立で重陽の節句のお料理を再現していただきました。小豆御飯や大根なますなど、ハレの日らしい献立になっています。
幕末の安政2(1855)年から文久元年(1861)年まで、大坂町奉行を勤めた久須美祐雋は、随筆「浪花の風」の中で、
「重陽には、栗、柿、葡萄を賞玩す。家々に儲置て、来る人毎に出してもてなしとす。烹 物には必ず松菌を用ひ、魚類ははもを用ること通例なり。」
と書いていますので、昼の献立にある「焼物」は、はもを使うことにしました。はもの付焼(照焼)にしましたが、文化文政ごろに果たしてはもを付け焼きにして 食べていたかどうかは不明です。昼の汁については、「見合」としていますので、豆腐と茗荷のおつい(おつゆ)にしてみました。「栗、柿、葡萄を賞翫す」と ありますので、そろえてみましたが、もちろん、江戸時代に食べられていた品種とはちがっています。ただ、栗については、現在の丹波の栗とほぼ同じと考えられています。
豆名月(旧暦9月13日)
旧暦9月13日(十三夜)の月は、旧暦8月15日(十五夜)の月に対して、「後(のち)の月」と呼びます。また、「豆名月」とも「栗名月」ともいい、月見の行事が行われ ました。ただ、十三夜の月を賞する風習は、中国にはなく、わが国固有のものと言われています。水落家の文政6年の「行事帳」には、次のように書かれています。
十三日 豆三升斗かい、塩入ゆでる
家内膳部常てい
昼少々かいす 」
文字が擦れて読めなくなっているところがありますが、家内膳部は常てい(常躰)、すなわち、普段通りの料理で、特別の行事食は作らなかったようです。
久須美祐雋の「浪花の風」には、
「十三夜には団子を製することなし。うで豆一式を多く調へ置て、家内下女下男迄に多く是を食はしむ。故に十三夜の月を市中にて豆名月といふ。」
と書いています。江戸では、十三夜にも団子をつくってお供えするのに、大坂では、十三夜には団子を作らないことを記しています。このことは、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも次のように書かれています。
江戸ニテハ、今夜モ、八月ト同製ノ團子ニ、絹被ト号テ、皮付ノ小芋、及ビ湯出栗、生 柿、枝菽、以上五種ヲ供ス。蓋、八月モ、今夜モ、三都トモ、毎家大同少異ノ例アリテ、 一定ト云ガタシ。
江戸ニテハ、今夜モ必ラズ芒ヲ供ス也。」
この記事によると、江戸では、9月13日にも、8月15日と同じように、団子、皮付きの小芋(きぬかつぎ)、ゆで栗、柿、枝豆をお供えし、ススキを生けますが、京・大坂では、塩ゆでした枝豆をお供えするだけであるとしています。