11月「亥ノ子祝(旧暦10月の亥の日)」

亥ノ子祝は、今年還暦を迎えた私自身、全く経験がありません。その時期になると、鶴屋八幡さんの店先に「亥ノ子もち」が登場し、それを横目で見ながら、「亥ノ子は、農村の風習と聞いていたけれど」と思ったことでした。

亥ノ子の風習は、もともと中国の「玄猪(げんちょ)」の祝いの風習が平安時代に日本へ渡ってきたものといいます。玄猪とは、旧暦10月の亥の日に餅をたべて無病息災を祝う慣わしで、宮中で行われましたが、後世、武家や民間にも広がりました。また、農村では、亥ノ子は田の神、農祭神として信仰され、亥の日は 田の収穫祭として祝いました。亥ノ子は特に西日本で盛んで、関東では、十日夜(とおかんや)の行事がこれにあたります。

古くは、摂津国能勢郡の木代村・大丸村・切畑村から、亥の日に宮中へ餅を献上しており(『和漢三才図会』)、能勢餅の名称で呼ばれていました。

唐川次夫氏の「亥の子」(『大阪春秋』22号)によると、亥ノ子の日には、子どもたちが新藁を棒状にたばね、縄で強く結わえた 亥の子槌をつくって、祝い歌を歌いながら地面を打つ遊びをしたり、各戸をまわって、餅やお菓子やお金を貰ったということです。そのときの歌が、大阪地方では、

「 亥の子の晩に 重箱拾ふて、あけて見ればぬくぬく饅頭、
にぎって見れば重兵衛さんのきんたまきんたま 」

(『上方』創刊号 昭和6年1月1日)というものだとか。

水落静さんにお聞きしたところでは、「旧暦10月の亥の日に、おこたあけ(炬燵開け)をしました」ということで、戦前までは、船場のような都心でもちゃんと亥ノ子の伝統は受け継がれていたのです。では、江戸時代の船場ではどうだったのでしょうか。

船場安土町の水落家の「行事帳」(文政6年:1823年)によると、亥ノ子祝におはぎをつくって、亥神様にお供えしています。亥ノ子餅ではなく、おはぎだったのですね。

「 亥ノ子祝  おはぎ 
餅米弐升、うる壱升、小豆六合
餅米壱升五合、うる一升五合、小豆八合
内祝也  
亥ノ日弐ツ之時ハ、初ノ亥ノ日、 三ツノ時ハ、中ノ亥ノ日ナリ
亥神様備  升之中におはぎ五ツ、大根壱本、柚壱ツ
右神棚へ上
外神様
御酒  燈明  」

ここで、「亥ノ日弐ツ之時ハ初ノ亥ノ日、三ツノ時ハ中ノ亥ノ日」としているのは、旧暦10月(亥ノ月)で、亥ノ日が2回あるときは初めの亥ノ日に、3回あるときは中の亥ノ日にお祝いするということです。

この記事では文字が擦れて読めないところがあります。また、おはぎをつくるときの餅米・うるち米・小豆の割合がなぜ二通り書かれているのかもよくわかりません。水落家のもう一冊のより古い「行事帳」(「文化二年(1805)十二月」と記載がある)には、

「 十月亥ノ子  米壱升、餅米弐升、小豆六合、黒砂糖小半斤、 おはぎ 」

と記されていて、黒砂糖で甘味をつけていたことがわかります。

亥の子餅の由来

亥猪は10月亥のこと。平安初期には10月上の亥の日に餅を食せば病なしという迷信があり、この日内蔵寮では餅を猪の形に作り献上することが室町時代から中の亥に改められた。猪は多産で、ことに女房がそれにあやかり餅をつき贈答した。

江戸時代には宮中で天皇に餅を献じ、小餅を紙に包んで下々へ下された。その餅は檀紙に包み、初めの亥の日には餅と菊の葉としのぶの葉、中の亥には紅 葉としのぶの葉、下の亥の日には銀杏としのぶの葉を入れ、小餅は公卿(三位以上)、殿上人(四位以下)、稚児、女宮などで色がちがっていた。

夕の御膳には天皇が摂津能勢の餅を召し上がられ、また『つくつく』といって強飯を小さい臼杵でつかれ、女宮もこれに習った。

後に民間の行事としても盛んになり、収穫祭の意味合いが強く、田の神送りと同様に亥の子神も春に来て秋に去ると考えられ、その日を祭る土地が鳥取や兵庫など西日本に多い。

東日本の十日夜(とうかんや)と同様、その日は子供たちが藁(わら)を縄で巻いた亥の子突きを作り、それを持って家々をまわり地面をたたく。

この日につく亥の子餅を、亥猪、厳重、おなきり、おなれぎり、などと呼ぶ。この日が炉開きとして餅をつきて供える習わしもある。

原稿:鶴屋八幡 岩橋義春
「鶴屋八幡」本店
大阪市中央区今橋4丁目4番9号
OSAKA-INFOによる詳細