12月「事はじめ・餅搗・節分・大晦日」

事はじめ(12月13日)

船場では、毎年「事はじめ」の12月13日からお正月を迎える準備をします。この日に、商家では分家や別家衆が本家へ、稽古事の世界では弟子が師匠宅へ、鏡餅を持って挨拶に行きました。お歳暮の挨拶は事はじめに入ってから伺うもので、今のように12月になったとたんに百貨店からお歳暮が届けられるというのはちょっとおかしいわけです。船場安土町の水落家の「行事帳」(文政6年:1823年)から、事はじめの行事を見てみましょう。

「 正月事はしめ 毎年十二月十三日
御神棚
右すゝはらいして、きれひに清むへし
御酒 燈明  献之
祝御膳献上
同 日  諸帳面表紙書
同 日 御竈 上塗仕来
  右ニ付、朝飯たき置、昼飯ハ茶漬ニして、夕飯祝
本 膳
鱠 こまめ、大こん     汁 かき、大根
焼物 生ぶり あんかけ  肴無之候ハヽ見斗
〆 右ニ而帳書祝、事はじめの祝義(儀)也 」

事はじめの13日に諸帳面表紙書きをして、来年使う帳簿の準備をしています。この日の夕飯祝いの献立は、万事始末な献立の中では、なかなか豪勢なものとなっています。
師 走に入ると、お正月の準備で今でも何かとせわしないことですが、とくに江戸時代の商家では、12月13日の事はじめから主人も家族も店の者も全員がキリキ リバタバタと忙しく立ち働いた様子が、水落家の「行事帳」から浮かんで来ます。事はじめの項の終わりには、「注連縄の準備もはじめよ、月末になれば世話しくなるから前広に(あらかじめ)拵え置くこと」などと注意書きをしています。

餅搗(12月21日)

水落家では、江戸時代毎年12月21日に餅つきをしていました。上記「行事帳」には、次のように記載されています。

「 餅 搗  毎年極月廿一日朝   献  立
猪口 酢あへ大根       砂糖ぜんざい 
小皿 たたき午坊弐、かすの子
右善哉餅出し最早いや□ 、有時ニ茶碗ニ飯を盛、
汁と鮒大根を出し、ぜんざいのわんと引替可申候
大根、鮒    汁 かき、大根おろし    めし 
くもじ いくはちにもわけて出し可申候
御酒   肴 有合之品見斗ひ
鉢 にしめ       鉢 水菜したし物
鉢 かつほかすの子  鉢 午坊
右御酒之肴ハ極りなし、何ニ而も有合候ものニ而、
品能取斗ひ候事也     御客者別家中、其外別懇之御衆中 」

餅つきの日の献立を見ると、上等の砂糖で甘くたいたぜんざいを食べています。搗きたてのお餅を入れてさぞかしおいしかったことでしょう。しかし、但し書きでは、一部擦れて読めないところがあってわかりにくいのですが、ぜんざいがいやになると、ごはんと汁と鮒大根(おそらく、鮒の切り身と大根なますの和え物)を出すようにと書いています。

水落家では、餅つきの日には、別家衆や親しい人々を御客として招き、ぜんざいや御酒を出してもてなしをしたようです。たしかに、ぜんざいと御酒では、嫌がるお客さんもいたことでしょう。

餅を搗き、たくさんの鏡餅を拵えて、神棚をはじめ家中のあちこちにお供えします。

「 御 鏡 餅
御神明棚  九重    但シ弐合五勺取、此米四升五合
御年徳棚  五重   弐合五勺取、此米弐升五合
三寶荒神  壱重、但三ツ重   壱升取、此米三升
佛壇    拾弐重     但シ壱合取、此米弐升弐合
三尊様、御先祖様
鎮守末廣大明神 三重     弐合取り、此米壱升弐合
天秤 壱升取、壱重
内戸棚 同 壱重
見世戸棚  同   壱重
土蔵    壱升取、弐重
御絵像   五合取、三重
〆 此米一斗三升
御鏡米
〆 弐斗六升四合 」

たくさんの鏡餅は、神棚や家の中の戸棚や土蔵へお供えする他に、親類のところや、町会所の町代や下役の者、水落家の下男、下女たちにも賦られます。しけ、まつ、きし、すま、という四人の下女にはそれぞれ五合取の鏡餅一重ずつ、と前だれ一つずつが配られました。

節分・大晦日

なぜ、十二月に節分が?と不思議に思われることだろうと思います。水落家の「行事帳」には、大晦日の前に節分の記述があるのです。ただし、十二月何日という日にちの記載はありません。水落家に残されたもう一冊の、さらに古い「文化二年(1805)十二月」と記載のある「行事帳」にも、大晦日の前に節分の記述があります。そこで、他の史料を探してみたところ、幕 末に喜田川守貞が記した『守貞謾稿』でも、巻之二十七「夏冬」の項、すなわち夏秋冬(旧暦4月?12月)の年中行事を記述したところの最後の部分に出てき ます。また、幕末に大坂町奉行を勤めた久須美祐雋が安政3年(1856)正月22日に起筆した「浪花の風」にも、
「節分大晦日には必らず麦飯を焚て、赤いわしを添へて祝ひ食ふ。都て年越には麦飯を食 ふこと貧富相同じ。江戸にて蕎麦切を用ふるが如し」 と書いています。

それで、大阪天満宮に残った江戸時代の暦(約100年分)を調べてみますと、年末に節分が来る年が結構あります。また正月に来る年もあります。そんなわけ で、水落家の「行事帳」では、大晦日の前に節分の記述があるのでしょう。次に「行事帳」の節分のところを見てみましょう。

「 節 分    豆七合いり、升ニ入、打、残り家内祝ふ
猪口鱠  大こん、こまめ    汁  くじら、大こん
焼もの  塩いわし       麦飯
但シ夕方祝、夜分有合肴ニ而、家内盃□ 有之候事

  大晦日   夕飯祝
右節分之通也     」

節分が12月下旬に来ても、正月はじめに来ても、今の暦では、2月初旬ごろにあたります。そのころには、イワシは大羽イワシ(マイワシの大形のもの)とな り、まるまると肥って油がのっています。また、汁の実にクジラの肉を入れています。江戸時代に大坂でクジラが案外食べられていたことに興味が引かれます。 大晦日の夕飯は、節分の献立と同じで、「浪花の風」にもあるように、江戸の年越そばが、大坂では麦飯だったことが面白いですね。