5月「端午の節句(たんごのせっく)」

旧暦5月5日は、五節句の一、端午の節句です。端午は月の初めの午の日で、とくに5月に限ったことではないのですが、午の 音が五に通じますとので、5月5日をさすようになったようです。端午の節句は、菖蒲(あやめ)の節句ともいいます。古い時代、菖蒲(しょうぶ)のことをあやめと呼んでいたからです。ショウブ(サトイモ科)とアヤメ(アヤメ科)は全く別の種類です。古くは、この日に毒気・邪気を祓うために菖蒲や蓬(よもぎ) を屋根に葺いたり、薬玉をつくって柱にかけたりしました。清少納言は『枕草子』に「節(せち)は五月にしく月はなし。菖蒲・蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし」と記し、菖蒲や蓬の香りあう端午の節句を讃えています。

菖蒲が尚武に通ずるとして、5月5日が男子の節句に定着するのは、江戸時代に入ってからのことです。

船場安土町水落家の「行事帳」(文政6年:1823年)から、端午の節句の献立を見てみましょう。

「 五月節句  朝  鱠、 汁(ふき・干大根)、 飯、 平(竹之子・ふき・割こんぶ) 昼  汁(めうか竹)、 焼物(塩さわら)  右節句客来仕来なし、三月節句同様少々肴之手当いたし置可申事 」

この料理を見ますと、端午の節句には必ず何々を食べるといったことはなく、ふき・たけのこのような旬のものを料理したようです。昼の汁(おそらく白みそのお つい)に入れる茗荷竹(みょうがたけ)は、茗荷が出はじめのときに筍状をしていますのでこう呼ばれました。ふつう、夏に出まわるのは茗荷の花で、江戸時代の文書には「明かの子」などと記されています。端午の節句を特徴づける食べ物は、粽(ちまき)と柏餅と言えるでしょう。

端午の節句も3月3日と同じように、お客さんを招いたりする習慣は無かったようです。水落静さんにお聞きした大正末~昭和初期の端午の節句は次のようです。

「もちろん、5月5日ではなく、6月5日が端午の節句でした。前日に花屋さんで菖蒲と蓬の束を5束買うてきて、晩に大屋根の上に放り上げます。6月5日にその5束を一束にまとめて、菖蒲の葉でくくり、お風呂に入れて菖蒲湯を楽しみます。お雛さんのとき(4月3日)は春休み中ですが、端午の節句はめったに日曜日には当たりませんし、女の子とちごうて男の子はお友達を呼んで遊ぶというようなこともありませんでした。庭には、ふきちりと鯉のぼりを立てました。家の中に鎧を飾って、粽(ちまき)と柏餅をお供えして、あとでいただきました。特別のお料理もいたしませんでした。初節句のときだけ、お祝いをいただいたところへ、くばりものをしました。そのときに粽をそえました。」

初節句のくばりものについて、『守貞謾稿』には、

「京坂ニテハ、男児生レテ初ノ端午ニハ、親族及ビ智音ノ方ニ粽ヲ配リ、二年目ヨリハ柏餅ヲ贈ルコト、上巳ノ菱餅ト戴ノ如ニシ。」

とあります。

男の子は初節句に粽をくばり、2年目からは柏餅を贈る。女の子の初節句には菱餅をくばり、2年目からは戴(いただき:3月雛祭のページ参照)をくばる風習があったようですね。

水落家では、粽と柏餅はすぐ近くの「山本」(備後町)で買いましたが、「鶴屋八幡」で買うこともあり、鶴屋の粽はくずでこしらえてあり、何本か束になっていて、その中に水ようかんのようなあんが入ったのがあって、子どもたちはそれに当たると大喜びしたということです。また、水落静さんが、鶴屋の柏餅は、お餅の形が編笠のようではなくて、まんまるこい球形でしたと言われますので、鶴屋さんでお聞きしましたら、たしかにその通りで、実によく記憶していらっしゃることにあらためて驚いた次第です。

戦前に発行されていた大阪の郷土雑誌 『上方』によりますと、江戸時代は門口店先等に武者を描いた大きな幟(のぼり)や五色の吹貫きを立てたものであり、鯉のぼりはもともと江戸のもので、大阪で鯉のぼりを揚げるようになったのは、明治期の後半からということです。大阪では、端午の節句も雛祭と同じく、1ヶ月遅らせてお祝いされていましたが、戦 後、昭和23年に国民の祝日に関する法律が制定され、5月5日が「こどもの日」として祝日になったために、端午の節句は割合早くから5月5日に祝われるよ うになったと思われます。それに対して、雛祭は戦後もずっと4月3日にお祝いするお家(うち)が多かったのです。

また、昭和4年生まれの岡田孝子さんは、6月5日に小学校から帰ると、お母さんに「菖蒲をあたまに巻いときなはれや」と言われて、菖蒲の長あーい葉っぱでに鉢巻きをしたことを話して下さいました。これは、菖蒲のちからで邪気を祓おうとした古代からの風習を受け継ぐものだと思われます。

鎧飾りの写真は、「神宗」の尾嵜彰廣氏にご提供いただきましたが、飾りは亡くなられたお父さん尾嵜雅一さん(大正4年生まれ)のものです。雅一さんは、鎧のかざりは、本物の甲冑をかざってはいかん、人形師の作ったものを飾らないといけないと言われたとか。床の間には、大阪では太閤さんの絵姿をよく懸けたものだそうですが、尾嵜家の太閤画像はまるで天神さんのように見えるので、写真では堂本印象の日の丸の軸を懸けているということです。

柏餅(かしわもち)

柏の葉は、若い葉が出ないと古い葉が落ちないところから「跡継ぎが絶えない」という縁起をかつぎ、武家社会を中心に広まり、男の子の健やかな成長を祈って柏の葉でくるんだ餅を食べるようになったというのが通説です。

江戸時代の嘉永から慶応の頃(1847~1867)の風俗を記した『絵本江戸風俗往来』によると、「市中みな柏餅を食う。この柏餅は手製なり。また菓子屋へ 注文するあり」とあり、江戸では宝暦頃から菓子屋で柏餅を売り始め、民間では幕末に粽(ちまき)より柏餅となったようです。

一方、同じ幕末でも、京阪では「端午には、汗にふき、茗荷の子、小赤豆・・・柏餅を供するは稀なり。すべて茅巻を用ゆ」(『浪華の風』)とあります。また、江戸後期には小豆餡と味噌餡の柏餅が作られていました(『守貞漫稿』)。当時は関西、九州方面では大ぶりな柏の葉がとれないため山帰来(サルトリイバラの 俗称)の葉がよく使われていました。

原稿:鶴屋八幡 岩橋義春
「鶴屋八幡」本店
大阪市中央区今橋4丁目4番9号
OSAKA-INFOによる詳細

粽(ちまき)

端午の節句に食べる粽は、柏餅以上に歴史のある食べ物です。平安時代には、すでに宮中行事の端午の儀式で使われていました(『和名類聚抄』)。

この粽の起源として知られているのが、屈原の故事です。屈原は紀元前300~400年頃の中国の「楚」の国の武人で、また、朗読に適する詩形(賦)の創始者 であり、政治家でもありました。彼の死を供養するものが粽の始まりとされ、中国では陰暦5月5日に粽(中身は粳米)を食べる風習が伝えられています。

日本で「ちまき」の呼び名がついたのは、茅の葉で巻いたため、あるいは千回巻く意にかけられたともいわれていますが、平安時代の漢和辞書『和名類聚抄』によれば、当時は真菰の葉を用いて米を包み、灰汁で煮たあと蒸したようです。

粽がお菓子として工夫されるのは江戸時代半ばを過ぎた頃。中身の生地も、外郎や水仙(葛)道明寺や羊羹など様々な粽が作られるようになりました。『守貞漫 稿』には「京阪にては男児生まれて初の端午には親族、及び智者(知人)の方に粽を配り二年目よりは柏餅を配る」とあり、又「江戸にては初年より柏餅を配 る」として東西文化の違いをうかがわせています。

京都祇園祭のとき、鉾の上より投げる粽は、屈原の故事から供養のためのもので、その粽を受けて門戸に吊しておくと流行病除け、または災難除けになるといわれています。

原稿:鶴屋八幡 岩橋義春
「鶴屋八幡」本店
大阪市中央区今橋4丁目4番9号
OSAKA-INFOによる詳細