9月「お月見」
(旧暦8月15日 仲秋の名月 芋名月)
旧暦では、7月、8月、9月が秋ですから、8月は仲秋(中秋)ということになります。8月15日の満月が仲秋の名月です。今年は10月1日です。ちょうど、こいも(さといも)がおいしい時期で、お供えしますので、仲秋の名月は、いも名月と呼ばれます。それに対して、旧暦9月13日(今年は10月29日)の名月を豆名月と称します。枝豆をお供えするからです。
船場安土町の水落家の「行事帳」(文政6年:1823年)から、仲秋の名月のお供えと料理を見てみましょう。
十五日 名月だんご
米三升 能洗、粉ニする
きな粉五合
いも三升
但シ朝昼とも常躰
夕飯 汁 とふ、
たん子
平 いも
備三宝 御酒、燈明、たんこ十三壱つ、いも、洗米
ツケ紙)
弘化四未年相改候事
十五日 名月だんこ、是迄米三升つゝいたし候へとも、
きな粉三合半 右之内半分餘もあまり、甚勿躰なく、此以後、
米弐升、いも弐升ニてよろしく、
但し其時之人数ニ應し、大底一人前一合宛ニ而よろしく候事」
これによると、仲秋の名月のだんごは、米3升をよく洗い、粉にしてつくっています。きな粉をつけて食べていたようです。八月十五日の朝食と昼食はいつも通りの食事で、夕食にだんごといもをたべています。名月へのお供えは、三宝(三方、さんぼう)に御酒、燈明、だんご13コ、 いも、洗米を載せています。「だんご十三壱つ」の意味がよく分かりません。夕食のとき、団子は、汁の実としてではなく、お平の小芋とも別に、単独で書かれていますので、おそらく、砂糖をまぜたきな粉をつけていただいたのでしょう。この八月十五日の記事の上には、弘化4(1847)年にツケ紙が付けられて、それには、名月だんごを米三升でつくると、半分ぐらい余ってしまうので、勿体ないから、今後は、米二升、いも二升でよいとしています。また、だんごをつくるための米は、一人前一合の割でよいと書いています。
『守貞謾稿』巻之二十七では、三都(江戸・京・大坂)の八月十五夜賞月の様子を比較しています。著者の喜田川守貞 は、天保八(1837)年から原稿の執筆をはじめたとされていますが、文化7(1810)年に大坂で生まれ、31才まで大坂ですごし、天保11(1840)年に江戸へ移りましたので、『守貞謾稿』の記事と水落家の[行事帳」の記事とは、時期的にそれほど隔たってはいないと考えてよいでしょう。そ の『守貞謾稿』には、
三都トモニ今夜、月ニ團子を供ス。然レトモ、京坂ト、江戸ト、大同小異ナリ。
江戸ニテハ、図ノ如ク、机上中央ニ、三方ニ團子数々ヲ盛リ、又花瓶ニ必ラズ
芒ヲ挾テ供之。 ※江戸ノ團子ハ、図ノ如ク正丸ニテ、素也。
京坂ニテモ、机上三方ニ團子ヲ盛り供スコト江戸ニ似タリト云トモ、其團子ノ形、
図ノ如ク小芋ノ形チニ尖ラス也。然モ、豆粉ニ砂糖ヲ加ヘ、是ヲ衣トシ、又醤油煮
ノ小芋トトモニ三方ニ、各十二個、閏月アル年ニハ十三個ヲ盛ルヲ普通トス。
※京坂ニテハ、芒及ビ諸花トモニ供ゼズ。」
と書いています。ここでは、江戸の団子はまんまるで、京坂の団子は、小芋の形に一方をとがらすとしていますから、現在の月見団子と同じ形です。しかも、「豆 粉ニ砂糖ヲ加ヘ、是ヲ衣トシ、」とありますから、今の、団子をこしあんでくるんとまいた形のものは、すでに天保ごろには出来上がっていたことになります。
そして、お供えする団子の数は、その年の月の数。つまり普通の年は12個、閏月のある年は13個の団子を供えます。今年は、旧暦では閏月がありましたから、13個をお供えすることになります。また、江戸では、必ず花瓶に芒(すすき)を生けるが、京坂では、芒も他の花々もお供えしないと書いているのは、興味が ひかれます。
幕末の安政2(1855)年から文久元(1861)年まで、大坂町奉行を勤めた久須美祐雋の随筆「浪花の風」には、
「(大坂では)月見には団子を製すること江戸と同じ。しかし汁烹にすることは稀なり。 きなこ又はあんを附て食ふ。芋を賞玩す。故に十五夜の月を賞して芋名月といふ。 」
とあり、団子を江戸のように団子汁にして、おかずとして食べることは稀であるとしているところを見ると、水落家の夕食の献立の団子は、まちがいなく、甘いきな粉をつけて食べたものだと考えられます。
月見餅の由来
月見とは、陰暦で8月15日の「名月」と9月13日の「後の月」を賞美する行事のことをいう。
8月15日の名月は中国でいう仲秋節で、唐時代以来盛んに行われ、詩文などに表現されている例も多い。日本に伝来したのは醍醐天皇の時代で、延喜9(909)年8月⒖日に行ったのが最初である。『日本記略』にはこの夜「太上法皇(宇多)文人を亭子院に召して、月影秋池に浮かぶの詩を賦せしむ」とあ る。
「後の月」の行事は中国にはなかったが、同法皇が延喜19(919)年に清涼 殿で月見の宴を催したのが初めてといわれる。当時はもっぱら月明かりのもと、詩歌管弦の催しがあったもので、後世のような供物をする例はまだなかった。た だし、月を賞美する歌はおびただしい数に上り、大宮人が名所の月にあこがれたことは多くの作品などでうかがえる。
くだって江戸時代に月見が民間で盛んになったことは、無数の俳句や詩歌が伝えるとおりで、その夜、小机の中央に三方をすえ、だんご、枝豆、里芋、栗、柿などを盛り、花瓶にススキと秋草を生けて名月に供えるようになった。だんごは12個で、潤年には13個を供えた。
宮中では、たとえば後水尾院の公事をみると、「名月の御盃」といって一献に芋二献に茄子三つを同様に盛って出すと、天皇は清涼殿に設けられた座で茄子を萩の 箸で三度突き刺し、その穴から月を覗いて願い事をした。これも世俗に流布したとある。江戸時代でも同じような品を月に供えて祝宴を張り、将軍が芋、粥、茄子を食べ、歌会や能楽を催すとある。
『守貞漫稿』によると、京阪では十五夜にはススキや秋草を供えない。だんごを供えるのは江戸と同じだが、これを里芋のような形に尖らせ、また主として芋を賞味するので「芋名月」という。対して、十三夜を「豆名月」という。
こ のように、月見の行事は、月見だんごとススキの穂を供えて飾り、月を賞美するのが一般的であるが、この夜の行事には他の要素も結びついている。芋名月、豆名月の夜に畑作物を供えて祝う風習が各地にあることからもわかる。8月の望(もち)の日が土地の作柄に影響をおよぼすからで、畑作稲作いずれにせよ初稲祭 り収穫祭になっていたことが知られる。
月見餅は、こうした由来をもとにつくられたもので、餅のまわりを餡でくるみ、「芋」に似せたかたちに仕上げられている。