「泥の河」宮本輝

宮本輝「川三部作」作品紹介

映画の部屋で取り上げた「泥の河」の原作者である宮本輝の叙情的な世界を、"川三部作"といわれる「螢川」「道頓堀川」とともにご紹介いたします。

泥の河

宮本輝のデビュー作「泥の河」は、黄土色の川面に人生の哀歓を映し出した佳作です。

一人の少年が、近くに住む同い年の少年一家を通じて知る現実の厳しさ。そして、人の死や動物の死に直面して知る人生の儚(はかなさ)さ。それらの出来事が 透明な少年の視線で、鮮烈に語られるのです。そして、この物語を鮮やかなイメージとして喚起させる要因に"食"があることを忘れてはならないでしょう。

舞台は戦後10年がたった大阪。川にはポンポン船が行き来し、往来では車の数が増えたとはいえ、まだ馬車を引く姿も多く見られた時代です。少年の両親が営む食堂は、そんな肉体労働者たちを相手にする店でした。本文中で"食堂"と"うどん屋" が 同義で使われていることも大阪ならではといえるでしょう。庶民的な食堂でうどんは主に取り扱われるメニューなのです。そして、夏に欠かせない甘味メニューはかき氷ですが、そんな暑い夏でもきんつばを焼く父親。"夏にきんつば焼いたかて売れるかいな"と言われながら焼くきんつばは、父親の戦争時代の過去を浮きあがらせ戦争に翻弄された庶民の哀しさを伝えます。

また、少年が友達に持っていこうとするラムネを突如川に投げつけるシーンからは、少年期の気まぐれな不確かさと揺れ動く心境が痛切に響いてきます。そういった描写が、泥の河に反射してにぶく輝く日のひかりのように、眩しく心に映る作品なのです。

螢川

「螢川」は富山を舞台に、思春期の少年が出会う恋や友情、そして別れを深い情感で描き出した物語。"川三部作"のなかで最も叙情的な一作といえるでしょう。また、少年の視点だけではなく、その父や母が主体となって交互に語られることで、男女間の愛憎、知人との軋轢(あつれき)など人の世の苦渋が浮かび上がります。

それだけに、ラストシーンで描かれる川のふちでうねる幾万もの螢火は、美しいだけではなく、哀切な情感をもって迫りくるのです。

道頓堀川

「道頓堀川」では、道頓堀川に架かる戎橋近くにある喫茶店でアルバイトをする大学生の青年が主人公。青年の両親や、喫茶店のマスターとその息子、店の常連客など青年を取り巻く人々の群像劇ともいえるでしょう。青年の両親や喫茶店のマスターを語るとき、しばしば時代はさかのぼりますが、時間軸の奥行きと、登場人物の横の広がりが、拡散するでなく一本の川のように流れゆくのです。

戦争を体験した青年の両親の年代が、中年期にさしかかろうとする昭和40年代の大阪が舞台。ヤミ市で知り合った縁でつかず離れずの関係を保つ複数の男女は、逞しく、ときにはしたたかに戦後の混乱期を生き抜き、それぞれに喫茶店、ホルモン焼き屋、小料理店など飲食店経営で生計をたてています。

この設定からは、なにはともあれまずは"食"といった当時の大阪の背景がいきいきと伝わってくるようであり、そしてまた同時に、大阪人のバイタリティーを感じずにはいられません。そして、昭和40年代に青年時代をおくる若者たちは、心の渇きや疲れを酒で紛らわせる毎日を送っています。二世代に渡って、それぞれの青年期の心の中に鬱積(うっせき)した思いを時代背景とともに描き出したこの作品。

そこには、もがきながらも、必死に現実を生き抜く力が溢れています。主人公の青年を親身に世話をする喫茶店のマスターが、青年の淹れるコーヒーを誉めて次のように言う場面があります。
"苦いし、濃いけど、ちょっとも舌にもたれへん。......ええ味や。"
この台詞は、まさしく本作の登場人物たちの人生を形容する言葉として相応(ふさわ)しいのです。

宮本輝(みやもと・てる)/作家

1947(昭和22)年、兵庫県神戸市に生れる。父の事業のため幼年期は、愛媛、大阪、富山を転々とするが、少年期以降は大阪で過ごす。追手門学院大学文学部卒業後、広告代理店勤務等を経て、1977 (昭和52)年「泥の河」で太宰治賞を受賞。翌年「螢川」で芥川龍之介賞を受賞する。1980年には「泥の河」が小栗康平監督により映画化され、モスクワ 国際映画祭、銀賞受賞。その後、次々と作品が映画化されている。
主な作品と映画化の情報などは下記の通りです。
「泥の河」(1980年映画化:小栗康平監督)
「道頓堀川」 (1982年映画化:深作欣二監督)
「螢川」 (1987年映画化:須川栄三監督)
「優駿」 (1988年映画化:杉田成道監督)
「夢見通りの人々」 (1989年映画化:森崎東監督)
「花の降る午後」 (1989年映画化:大森一樹監督)
「流転の海」 (1990年映画化:斎藤武市監督)
「幻の光」 (1995年映画化:是枝裕和監督)
「私たちが好きだったこと」 (1997年映画化:松岡錠司監督)
「錦繍」
「青が散る」
「地の星」(流転の海・第二部)
「血脈の火」(流転の海・第三部)

織田作之助文学と大阪の「食」
宮川 康

私は大阪の食文化に通じた人間ではない。だからというわけではないが、織田作之助の文学と「食」をあまり結びつけて考えたことはなかった。

今度、改めて文泉堂版全集をひっくり返してみたのであるが、実のところ、大阪の「食」に触れた作品をそれほど多く見つけることはできなかった。もちろん、 「食」が作品に登場する頻度は、他の作家に比較して、けっして少ない方ではないかもしれないが、織田文学を昭和初期の大阪の「食」のガイドブックのように 捉えるのは誤解というしかない。

おそらく、そのようなイメージは、出世作であり代表作である『夫婦善哉』によって作り出されているのであろう。たしかにこの作品には、いたるところに 「食」が登場する。しかし、『夫婦善哉』ほどに大阪の「食」に多く触れた作品は、全作品中でも、同時期に書かれた随筆『大阪発見』ぐらいしか見当たらな い。ここには、戎橋のしるこ屋「月ヶ瀬」のぶぶ漬、そごう横「しる市」の汁物、法善寺横丁の「めおとぜんざい」、千日前「正弁丹吾亭」の関東煮が『夫婦善 哉』の叙述よりもさらに具体的に描かれ、「大阪の人々の食意地の汚なさは、何ごとにも比しがたい。」とも述べられている。この「食意地の汚なさ」という言 葉は『夫婦善哉』の「下手もの料理」と同様に、大阪においては、むしろ褒め言葉であろう。

織田が作家的デヴューにおいて、大阪の「食」にこだわったのには理由がある。それは織田が、観念優先の文学ではなく、『大阪論』に言う「現実主義」の世界を、文学において構築しようとしたということである。その足がかりとして、彼は人間生活の必要に密着した「食」、つまり「下手もの」を描いたのだ。

ただその後、織田の文学から「食」の叙述は影をひそめていった。その原因の一つとして、戦中戦後の食糧難があげられよう。戦争は、その「下手もの」ですら、当時の現実生活に密着しているとは言いがたいものにしていったのである。

ところで、戦後に書かれた小説の中で唯一「食」にこだわったものとして、『饗宴』という掌編がある。闇市の食堂で次から次へと料理を注文しては平らげていく飢餓恐怖症の男が描かれている。

織田は、個々の食物の味や質としてではなく、「食べる」 という行為そのものとしての「食」に、文学的価値を見いだしていた作家であろう。

※ 宮川先生は、織田文学研究をポピュラーなものにしたいと、個人のHPを立ち上げました。
「織田作之助研究」のホームページ<http://homepage2.nifty.com/odasaku/