4月「魚島(うおじま) とびきりの桜鯛をやりとり」

4月から5月にかけて、鯛は産卵のために瀬戸内海の中央部、風光明媚な島々の海へ群れをなして集まります。この時期を「魚島どき」と呼び、船場では親せき同士や親しい家の間でとびきりの桜鯛を贈答する風習が、江戸時代から大正頃まで続いていました。産卵期の鯛は赤みが増し、身が肥えて脂がのり、一番美味しくなります。この時期の鯛を桜鯛と呼び、産卵を終えカスカスになった鯛を麦わら鯛と呼びます。

魚島どきには、女子衆(おなごし)さんや丁稚(でっち)さんが、鯛の入った魚箱(さかなばこ)や魚籠(さかなかご)をさげ、町を行く姿がよく見られたということです。

今回のシリーズの最初、1月のところで、船場の文化はある面では道具の文化であったと述べました。道具の文化ということは、その道具を使ってのおつきあいの文化であったとも言えます。八十八夜(今年は5月2日)をピークとして、その前後に桜鯛をやりとりする魚島の風習は、船場のおつきあい文化の一つの典型と言えるでしょう。

大阪の町は西に大阪湾をひかえ、その続きに瀬戸内海があり、海の幸は実に豊かです。鮮魚は雑喉場魚市場へどっと運びこまれます。雑喉場魚市場は、江戸時代初期から昭和6年に大阪市中央卸売市場が開設されるまで続いた、大阪の町の台所を支えた鮮魚市場です。

水落家では、魚島の風習が船場でもあまり行われなくなった昭和初期でもさかんに鯛のやりとりをされたということです。水落家では雑喉場の井上一統(本家:井上徳兵衛家)の店に頼んでおき、いい鯛が手に入ると松を敷いた魚箱に入れ、男衆(おとこし)さんに親せきや知人宅へとどけさせました。この時期には、競い合いになり、各お家(うち)で、「ええ鯛、ええ鯛 」と求めたとか。水落家へ毎日のように到来する魚島の鯛は、出入りの魚屋「魚留」で料理をしてもらい賞味されたそうです。

万事始末の船場では、鯛のしゅんに魚の王者の味を思う存分味わったのでしょう。魚島どきには、年に一度だけ、丁稚さんに至るまで鯛を食べさせてもらったとか、職人たちが何人か寄り集まって鯛を一尾求め、仕事を休んでまで魚島気分を味わって楽しんだという話が『上方』77号に出ています。

また、同じ号に箏曲家藤田斗南氏が「箏曲家の間にも師匠に対するお勤めの一つとして、寒中見舞・中元土用見舞・年始め・お歳暮とともに弟子はめいめい魚島時季には鯛を持参しますし、お素人の稽古先からも贈ったもので、魚島ごろは大きな師匠の家では大きな鯛が毎日重なって持込まれるので、毎日鯛のさしみ、塩焼き、目玉の吸物、あらだきと、鯛の御馳走攻めになって弱るほどでした。あんまりダブる日は出入の魚屋にそのままあづけて、魚島過ぎてから他の魚に換へてもらったりするほどでした。」と記しています。

鯛料る春の灯や臺所 露石

これは俳人水落露石が魚島の鯛を詠んだ句ですが、露石とは水落静さんの夫君である九代目水落庄兵衛さんの父上、八代目水落庄兵衛さんの俳号です。露石さん は、正岡子規が提唱した新俳句運動に共鳴し、子規と親交を結び、子規から「俳諧の西の奉行」と称えられたほどの明治大正期大阪を代表する俳人であり、あらゆる教養を身につけた船場の旦那衆でした。